昭和46年08月25日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
神様の御機感にかのうた氏子に、お取立て頂きたいと思います。神の機感にかのうたおかげを頂いて、それが家柄一筋となって、いわゆる信心者の家として、いよいよ子の代よりも孫の代と言う様に、繁昌して行く程しのおかげを頂きたい。確かに世の中はよく見てみますとこの通りでありまして、お金はあるけれども、健康には恵まれとるけれども、様々に恵まれておるけれども、幸せではないと言う事だと思うのです。
しかも子孫を断絶して終う事までなりかねない、そこでその、もののおかげも、健康のおかげも、すべての人間の幸せに必要欠く事の出来ない、おかげを頂かせて頂くことの為に私どもが精進しておる。その為に私どもが信心しておると言う訳であります。そこでそれなら信心して、どう言う事になって来なければならないか、それをここでは神のおかげを知らぬ、からとこう言うとられます。
ですからこれは神様のおかげだと、いうならば特別のおかげとでも申しましょうか、これは信心させて頂かなければ頂けない、おかげと言う事になりましょう。その神様の働きというか、神様のおかげに浴するというか、それこそ特別扱いをされておる様なおかげを頂いて、初めて神のおかげを知る事になるのです。昨日久し振りでお芝居を見せて頂きました。朝の御祈念を終わりましてから九時頃からです。高橋さんの車で、家内と愛子と親子三人で、お芝居の切符を三枚お供え、秋永先生のところから頂いた。
それでも余りに席が後ろの方ですから、どうなさいますかと、いやもう入りさえすればどうかなるが、と言うて参りました。成程もう市民会館は二千人から入るでしょう、あの会場はね。私のは会場の後ろの方ですから、舞台は小さく見えるところでした。けれども私はお芝居が好きですし、愛子は始めて私どもと参りました訳です。それで私は下の方へ降りて行ってから、花道よりの方の二番目のところが空いてましたから、そこに腰掛けて見よりました。
そしたら暫くしよったら愛子がやって参りました。あんたもここに掛けて見よんなさい。丁度そこに二つならんで空いているのです。それからお弁当やら作って来て貰っておりましたので、そこでお弁当を頂かして貰うて、そしてお母さんを呼んで来るとよいけれどもと言うて、そしたら丁度、私ども二人掛けておるところの前が人が座っておられたけれども、もう一、二段見ましたら立って行かれましかた。
だから又来なさったら立ってよかけん、お母さん呼んで来いと呼びにやりましたら、丁度ここに親子三人掛けさせて頂きました。最後までそこで人が見えませんでしたからおかげを頂いた。いつもの事ながらおかげを頂いていると思います。これは、まあお芝居をもう本当に、役者の方と話し合いの出来る程傍らのところからね見せて頂きました。もう愛子が始めて歌舞伎を見せて頂きまして喜んで喜んでもう、お父さんがお芝居お芝居と言いなさる筈だと、役者の息が聞こえる傍らですから。
もう本当に芝居の分からん者でも、本当に声でもかけたい様な衝動にかられます、と言うて喜びました。愛子さんが喜んだだけでも、今日はお芝居見に来たがとあったねと言うて。それから、あのお芝居がはねた頃に、もうちゃんと秋永先生迎えに来て頂いとりました。それがですね、特別のおかげを頂いておると、言う事を端々にも感ぜずに居られないのですよ。行きがけは高橋さんの車でした。
秋永先生があの丁度小屋の前に参りましたら、あら後ろから秋永先生が来よるですよと言うてから、バックミラーに映ったのですね、沢山の自動車が来ておるし並んでおる中に、少し時間をおそくなしたと思うて秋永先生来たけど、こちらは一寸手間取りましたから、丁度その時間になりました。とにかく車が沢山流れるように車が走っておる、その後ろに秋永先生の車が来てるのですからね、捜す事も尋ねる事もいらん。
降りましたら会場、入りましたら開幕と言うた様な手順の中に、しかも言うならまあ特等席で、親子三人の者が弁当を使わして頂きながら楽しませて頂く、もう本当にそれはもう有り難いですね。いわゆるその特別のおかげを受けておると、思わなければおられないから有り難いのである。そしたら車が博多駅の前で、博多一番と言われる美味しい大変高級な支那料理が出来てます。そこの前に横付け、まあここでお食事させて頂きましてから帰りましょう。
そしたら秋永先生達の兄弟が三人、それからそれに麻生さんを加えて、それから一寸時間遅れてから奥さんがみえました。丁度私ども八人でテーブルを囲んで、最高の世界の珍味といわれる様な、珍味を頂かして頂いてそのまま帰らして頂いた。もう本当に金を出したからとかね、権力とかだけでは出来ないものがある。特別の神様のおかげを頂いておかなければ出来ない、いわゆる神のおかげを知らぬからと仰しゃる、神のおかげを感じぬ訳にはいけん。帰らして頂いてすぐ風呂を頂きました。
疲れとったから家内がすぐ足を揉んでくれました。足揉んで貰いながら本当にどんなに考えても有り難いなと言うて、あの言いながら寝ませて頂いたんですけど、その時御心眼に小さい電気の五色光を頂いた。それが十色光五十色光、百色光と段々こう大きくなって行くところを頂いた。私共はね本当に信心しておかげを頂くと言う事は、そのおかげがその様にね、段々大きくなって行かねばいけんのですよ。
真っ暗い中で、それは五色光に触れますならば、もうそれこそそれが有り難い地獄で仏に会うた様な有り難さ、昔の椛目を御存じの方は、あのお広間の西側の方にお手洗いがありましてね、狭い廊下を通って行く、電気も何もついておりませんでした。しかしここに電気が要りますねと言うて、五色光の電気がついた時に、私は二間余りの廊下をそこを出てから、その電球に向かって合掌しながら便所に行った事を覚えております。
今はどうでしょう、もうそれこそ何時もかつも昼の様な、しかも水洗便所を使わせて頂いていますけどもね、おかげが例えばその事だけでも、段々段々素晴らしい事になって来ておる。ですからそのおかげの実感というものが、段々強くしかも大きくなって行く。だからここんところの神のおかげを知らぬからという、神のおかげを本当に実感する為に、神のおかげを頂かなければいけん。
ぽっんぽっんおかげと言うのでなくて、もう日々が特別の神様のおかげの中にあるなあと言う、おかげを頂かして貰わねなければならん。そういうおかげを頂く為に、お互いが日々信心の精進をするのです。いやそうい、おかげを頂く為に精進するのですけど、本当いうたら日々のおかげを頂いて行く、神様のおかげを知らぬからと仰しゃる、そのおかげを実感すると言う事が、どう言う事になるかと言うとです、身代もでき子孫も続き、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と一年勝りのおかげを頂ける。
そういう大変なおかげを頂く事になるのですから、そのおかげを大きくして行くだけではないでしょうが、そういうおかげを頂き続けて行けれる道なのです。金光様の御信心とは。折角信心の有り難さが分からして貰い、おかげを分からして貰う、そこに一寸怠慢が出来たり、おかげをおかげと感じきれなくなったり、そしてと言うて信心を止めきらんと言った様なですね、信心が続いた所で、おかげをおかげと感じ切らない様ではね、いわゆる今日この七十八節の、いわゆる神の機感に叶た氏子にならん。
神の機感にかのうた家柄人筋にならんのです。だからどうでも、おかげ受けなければならん。五色光よりも十色光、十色光から五十色光、段々光り、その光に照らし出されるおかげの面というものが広うなって行かにゃいけん。神の大恩を知らぬから無事、神の大恩を知れば無事壮健で子孫も続きとあります。いわゆる五色光の上にでも有り難い、御恩を感じたけれど、それが十色光、百色光と大きうなって行きゃ神の大恩を、神の恩を恩として段々段々大きくなって来る。
神のいよいよ大恩が分かって来る。神の大恩を知れば子孫も続きと身代も出来、一年勝りのおかげが受けられる。それにはどうでもおかげがね、大きうなって行かねばいかん。御理解六十四節にありますね「此の方は参って尋ねる所が無かった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて、身凌ぎをする様になれ。」此処では日々そういうおかげの頂かれる事を頂いて帰れる。折角朝早うから、又は遠い所からお参りをして来るのであるから、徳を受けて身凌ぎをする様になれ。
私ども昨日一日の事を思うてみますと、いわゆる身凌ぎの出来る程しのおかげであったと言う事になる。ですからおかげと言うものは本当に感ずる事が出来る。初めその上の方へ座る事は座りました。そこへ私はステッキを置いて、そしてその儘下の方へ行ってる訳です。それで済んでしもうてから、そこんところへ行った所がステッキが無いのです。それはもうお金にすれば幾らがとあるじゃ分からんです。
私のステッキは、あれは全部べっ甲で出来てますから、ところがそれには日田市綾部とちゃんと刻りこんである。綾部さんの御主人が、糖尿病で足を悪くされた時分に作られたものを、それをお供え頂いておった。だから先生、その日田市綾部と言うところだけを巻き替えましょう、新たに埋めるかどうかしましょうと言うて居られました。だから私もそうして貰ったら良いなと思ったんですけど、神様にお供えさせて頂いたらね、その日田市綾部と言うそれがね。
いうならば御主人の御霊様がこの杖について来て下さってる様な、思いであれを私が使わして頂くと言う事が、おかげという意味の事を頂いたから、いやこれはもう巻き替えなくても、埋めなくても良いのです。このお宅の名前のまま使わして貰おうと言うて使ってる。そこで済んでしもうて行ったところが無いわけである。誰か拾うて行っとる、ところがそれには日田市綾部と書いてありますから。
下に参りまして受付のところで尋ねましたら、あ日田の綾部さんの杖はあそこに預かっておりますと、誰かが拾うて行って持って行って下さった。私はその時に思いました。本当に神様のおかげの中にこれを使うていなかったら、折角のこれだけの立派な杖は、ひょっとしたら失くなっとったかも知れんと思いました。私はそれをその儘、御霊様がこの杖をつくときは、何時もついて来て下さると言う思いで、何ごとも信心になれよと仰しゃる信心がね、そういう時にもそんなにはっきりと出て来る。
だから捜すこともいらなかった。表に出たらちゃんとそこに杖が待っとったと言う感じです。いわゆる身凌ぎが出来る信心、だからその身凌ぎの出来る様な信心をです、日頃身につけておかねばいけないと言うこと。只おかげを身につけて、そしておかげはおかげと感じれん様になって、信心が薄くなったり、又は強くなったりではいけん。身凌ぎが出来る様になると、しんじんはいよいよ強うなって行かねばおられん様に、神様が御指示下さる。神様がいよいよ御教導下さる。
だから身凌ぎが出来る程しの信心を頂かして頂く稽古を此処ではここに参って尋ねる。此方は尋ねてまわるところが無かった。氏子はおかげを受けて遠路を参って来るがと仰しゃる、ここでは尋ねるところがある。信心を教えて頂く、身凌ぎが出来る信心とは、こういう信心を目指して行かねばならんと分からして貰う。だからおかげが五色光から十色光、十色光から五十色光から百色光と言うように段々おかげ進展して行く。
成程これだったら、この調子さえ私どもが頂き損なわずに居ったなら、一年勝り代勝りのおかげが頂ける筈だ、そしてです、それが親子三代も続かせて頂くことになる頃には、もう家柄人筋になるという徳がその家について来る。まあそれだけの事ですけれども、ならば身凌ぎの出来る信心とか、おかげをおかげとして段々大きくして行くその信心の内容が、日頃申し上げている様な訳であります。
昨日の朝、北野の堤さんがお届けされました。先生今朝方からお夢を頂きました。それが大きな蛇がですね魚を煮付ける様に煮付けてある。それをどうぞ食べなさいと言うてから、堤さんの前に出されたとこういう、食べはしなかったけれども、ホウこれは蛇の煮付けと思うて言うたところで目が覚めた。昨日も一人桜井先生の奥さんでした。もう生まれたばかりのこれ位小さい蛇がですね、いっぱいすり鉢の中に入れて、こうこうつけば直ぐ潰れると言う感じのですね。
すり鉢の中ですっておるところで目が覚めたと。過去の身のめぐり、めぐりはそれこそ有り難く頂く、お互い皆さん難儀は感じとるけど、それはめぐりのせいなんだ、だからその難儀を神様の御事柄として、神様が下さったものとして有り難く頂くと言う事なのだ、堤さんはそのところを頂いとられる。だからそれを頂くことは仲々容易な事ではありません。けどもそれを頂くからこそ力になるのです。
私の方の家内なんかは、その平口をねお刺身にして頂くというお夢おしらせを頂いた。それはもう一つ間違えば毒ですけども、それは有り難く頂いたらそれが力になる。桜井先生が頂いておられるのも、それではのうてもめぐりの深い私達ですから、夫婦でもお道の教師にならんならんのですから、やはりめぐりが深い私達ですから、だからこれ以上のめぐりを作ってはならんと思うておるけれども、やはりどこの端から油断が出来てめぐりの卵、めぐりの卵があるかどうか知りませんけど、まあ小さいですね。
まあ丁度白魚の様な感じじゃないでしょうか。がやっぱりぞっくり出来てくる訳である。だからもう出来た度にそれをすり潰して行くと言う事。今迄のめぐりの為に起きておる難儀は有り難く受けて行く、さあこれから先は金輪際めぐりを積んではならん、それでも生身を持ってるから、どこかの端からめぐりを積む様な事をしとるけれども、それはもう片っ端からすり潰して、おつゆの実にどもして行くというた様な、おかげを受けなければならんと言うお知らせを頂いとられます。
だからそのこととてお話をすればそれだけの事ですけども、やはり容易な事ではない。そこに信心の修行が求められる訳です。修行の生まれて来る、いわゆる元気な心、有り難い心、その元気な心と有り難い心がなからなければ、そこんところを頂く事は出来ません。だから根本のところを言うと、そういう元気な心が湧いてくる、有り難い心が湧いて来るまで、信心を進めさせて貰い。
その有り難い心でめぐりのお取り払いも頂いて行こう、又めぐりを作らん様にもして行こう、そういう信心が段々出来て行くところに、五色光は十色光と言った様なおかげに展開して来る。おかげが広がって来る。だからいよいよおかげを実感する、段々身凌ぎが出来るような信心にまで進んで参ります頃には、もう金輪際おかげは落とさんと、いうなら一年勝り代勝りのおかげを受けられるようになる。
いよいよ神の大恩を大恩として感じさせて頂きながらの、いわゆる神恩奉謝の生活が出来る。そこに家柄人筋となってと、いう程しのおかげを頂いていよいよ信心者の上に、いよいよ優雅な信心の生活が出来ると言う事になるのです。それが徳です。それが子供にも残しておける、又は私どもがあの世にも持って行ける程しのことにまでなって来るのですから、そこの処を疎かにしてはならないと思うですね。
どうぞ。